コンテンツへスキップ

横浜こども食堂に寄付した人の物語

    横浜こども食堂に寄付頂いた方々の物語

    明美さんの手紙

    長期闘病生活していた明美さん(image)

    横浜こども食堂は、多くのサポーターにより運営されています。ボランティアや寄付、様々な形でももふねプロジェクトの想いを知り賛同してくれた方々。見返りを求めない善意が少しづつですが、広がっています。
    彼ら彼女らは、自分の名前を web に出す事さえ控えて欲しいと伝えてきます。それは、「人として人に何かをしたいと思うのは当然の事ですから」 

    彼女の最後の望み

    明美さんは幼少期から、入退院を繰り返す少女でした。
    友達と言う友達もいなかったと聞きます。 
    そんな、明美さんは二人姉妹でお姉さんがいました。両親が忙しかったので、お姉さんは明美さんの面倒をよく見ていたと言います。

    明美さんが二十歳を過ぎたころ、ますます病状は悪化し、長くは生きられないことを家族は知らされました。ある秋の夕暮れ、久しぶりに体調が良い明美さんに、お姉さんが病室で聞いたそうです「今度のクリスマスのプレゼントは何がいい?」
    明美さんは、にっこり笑ってお姉さんに「お願いがある」と封筒を手渡しました。

    お姉さんが封筒を開けようとすると、明美さんが「絶対開けちゃだめ」と怒ったのです。
    「じゃあ、いつならいいの?」お姉さんも笑顔で妹の明美さんに聞きました。

    「そのうち」明美さんはそう答えると、お姉さんの方を見て「クリスマスには、お金が欲しい」というのです。お姉さんはびっくりして「何に使うの?」と聞くと、「ないしょ」と言って二人で大笑いしたと言いいます。

    その日を境に明美さんの体調はどんどん悪くなっていったのです。

    ある朝、病院から緊急の呼び出しがあり、お姉さんが病室に向かいました。
    「明美!」  お姉さんの呼びかけに、うっすらと目を開けた明美さん。
    何かを言おうとして、そのまま亡くなってしまいました。

    葬儀も終わって、放心状態のお姉さんでしたが、クリスマスの朝に、手紙の事を思い出しました。
    急いで、手紙を開封すると、そこには姉への感謝とお別れの言葉が何ページにもわたって、書かれていました。

    明美さんは自分の死期が近い事を知り手紙を書いていたのです。
    お姉さんは、涙がとまらなくなりました。

    それから、1年後 お姉さんから横浜こども食堂宛にメールが来て、来社される事になりました。

    私は、明美さんとは会ったこともありませんが、お姉さんが明美さんの通帳を見せてくれました。
    お小遣いを少しづつ貯めた記録が、何冊もの通帳に積み重ねられています。

    そして、最後のページ クリスマスには、大きな金額が。

    明美さんの手紙には、自分は病気だったけれど、ご飯には不自由しなかった。けれども、日本にもご飯も食べられないこどもたちがいる事をテレビで知り、自分が無くなったら、これまで貯めたお金を、こども食堂に寄付して欲しいと、結ばれていたそうです。

    お姉さんはいろいろなこども食堂を見て、一粒を増やしながら食べるというプロジェクト、に大きな共感をしてくれたと言います。そして「きっと妹も、こどもたちと一緒に、畑仕事をして収穫したり、そして一緒に料理して、皆で楽しくたべたかったんでしょうね。」